映画感想 チャーリー・カウフマン監督 『もう終わりにしよう』
ある年の冬、ジェイクは恋人を両親に紹介することにし、彼女を連れて車で実家へと向かっていた。恋人は何かを終わらせたがっていたが、その思いを伝えられずにいた。実家に到着した恋人はジェイクの両親から歓迎されたが、異様なほどのテンションの高さ(特に母親の)に困惑を隠せなかった。その後も恋人は次々と不気味なもの―体を震わせ続ける犬や幼少期の自分と瓜二つな子供の写真―を目撃し、精神的に疲れ果ててしまった。
帰宅の途についた2人だったが、ジェイクが「甘い物を食べたい」と言い出したため、近くのデイリークイーンに立ち寄ることにした。それから続く一連の出来事の中で、恋人は言葉にできないほどの恐怖を味わうことになった上、徐々に現実と非現実の区別が付かなくなっていく。
ネットフリックスオリジナル映画が、このクオリティの映画を作れるようになったのかと驚嘆した。
月額880円(税込み)でこのクオリティの作品が楽しめるとなると、最高すぎる。
プロジェクターで天井に投影してベッドの上で鑑賞。
映画館で観る映画が好きな人にはプロジェクター購入して、ネトフリ作品を鑑賞をお勧めしたい。
音響と大画面の迫力は映画には欠かせない。
さて、本筋から外れたところから始まるのがこのブログの真骨頂。
気楽に読んでね。
というのも、この作品『もう終わりにしよう』(I’m Thinking of Ending Things)、めちゃくちゃ重い。
心をえぐってくる。
描写も不気味だし、映像のワンカットワンカットも不気味。
さらに、その不気味さがリアル。
作中、ジェイクの部屋の棚とかが映されるんだけど、田舎の一人息子が育つ部屋ってこうだよね。みたいな姿をありありと見せつけられるような感じ。
それは正常なんだけど、奇妙なものとして映されていて、それこそ正常の中に異常はある、みたいな。(語彙力不足でこれ以上は断念)
本作品、私は前提知識なしで鑑賞した。
前提知識なしで見ると、おそらくほとんどの人が混乱する。
現実感は皆無なので、これは何の世界を描いているんだ?というクエスチョンマークは常に頭にうかぶ。
それでもこの作品に引き込まれるのは、巧みな(不気味な)映像・数々の強烈なセリフ・痛烈な風刺(現代社会に対する批判?)が相まって、作られているからだろう。
映像については冒頭に触れたので、まずはセリフについて。
冒頭20分は、車の中ではジェイクとルーシーが実家へ向かう車の中での会話だけでほぼ描かれている。
ここからもこの映画の特殊性が想像できるだろうか。
会話の内容は文学的。この描写は好きな人は好きだけど、退屈に感じる人もいるかもしれない。
私は好きです。
痛烈な風刺(現代社会に対する批判)について。
風刺の要素は、いくつかあるように思うし、それらが重なっている部分もある。
いじめ、ジェンダー、メディア、孤独。
自分が感じた中で、特に刺さったのは以下の二つかな。
・幸せの偶像化(田舎の美化)
・外見上の差別(ルッキズム)
セリフとして、以下のようなセリフもある。
「みんな、テレビに映っているものは醜いより、美しい方が良いと考える」
他にも随所随所に、風刺がきいたシーンがあるので、メッセージとしてはわかりやすかったように思う。
とはいえ、どういう設定なのかは鑑賞後もはてなだったので、チャーリーカウフマンの解説を読んでみた。(ネタバレになるので注意。英語苦手な方はGoogle翻訳を)
Charlie Kaufman Explains I’m Thinking of Ending Things | IndieWire
これを読むと、そういうことだったのかと思える。二度おいしい。
ただ、監督も解釈は観た人に任せると言っているので、解説を読むのは鑑賞後のほうがよいかもしれない。
“I let people have their experiences, so I don’t really have expectations about what people are going to think. I really do support anybody’s interpretation.”
感じること、考えることがたくさんあった名作。
普段メディアにとりあげられない部分を描いて、こっちも現実だろ?と訴えかけてくるようで、正直つらい。
でも、向き合う必要がある現実に違いない。
きれいなところばかりを見て、現実に向かいあわないのはもう終わりにしよう。
そういう前向きなとらえ方もできるはずだ。
とりとめもなく書いてしまったが確実に名作。お勧めの作品だ。
以上でこの記事も、もう終わりにする。
ブログは続けるよ!笑