映画感想 シドニー・シビリア監督『いつだってやめられる 闘う名誉教授たち』
ドラッグを作った罪で服役中の神経生物学者ピエトロ・ズィンニ(エドアルド・レオ)は、合法ドラッグの製造者を探っていたところ、ある男が神経ガスを用いたテロを企てていることに気付く。ピエトロはテロによる大量殺人を阻止しようと、各地に収容されている合法ドラッグ製造仲間を招集し、知恵を絞って脱獄計画を練る。
ついにシリーズすべての作品を鑑賞し終わりました!
シリーズものの三作品目。
フィナーレを飾る作品。
シリーズ物は長くつづければ続けるほど、駄作と言われてしまう作品も多い。
ファンの視聴者の期待を超えることが難しいからこそ、そのようなジンクスがあるのだろう。
この作品はどうだろうか、私の感想を書いていく。
1作目と2作目については↓で書いています。
・1作目
・2作目
3作目の『いつだってやめられる 闘う名誉教授たち』では、前作と比べるとコメディ要素が少なくなった印象がある。
見せ場として脱獄とテロの阻止という二つの見せ場があるため、そこに向けて奮闘する姿がメインだ。
もちろん、その中でもトラブルが起きてその会話にはユーモアがあり笑わせられる。とはいえ、思い切りのいい笑いのシーンがあったかと言われるとあまりなかったような印象を受けた。
※以降ネタバレをしているので、まだ作品を観ていない方はご注意。※
ストーリーについては、深読みをすればするほど皮肉なストーリーとなっている。
まず、敵対する相手が自分たちと同じように大学側の怠慢によって悲劇を被った大学教授であること。
主人公たちも、大学からの研究費を削減されて合法ドラッグを売りさばいて刑務所にいる身だ。毒ガスでテロを計画している相手とも、程度の差はあれ同じ穴のむじななのである。
また、敵であるテロの首謀者に対して大学側としてむげな扱いをしたのはズィンニ自身であったのだ。ズィンニに悪意はなかったのだが、自身のむげな扱いによって傷つけていた大学教授がテロを実施しようとして、ズィンニがそれを阻止しようとしているのだ。
最後に、1作目からの伏線回収となっている停電。
1作目では自身の研究をプレゼンしていた時に停電(大学の建物の不備によるもの)してしまい、説明を十分にすることができず研究費をもらうことができなかった。しかし最後にはその停電を活用することで、テロを防ぐことができたのである。
どちらかというとコメディを期待していた私としては少し物足りない感じもしたが、過去作の敵が味方として一緒に協力したり、伏線回収をできるような作りになっていたり、楽しめる作品であることは間違いなさそうだ。
何より、大学教授のおじさんたちをより一層好きになれる作品であることは間違いない。
彼らに幸あれ!!そう思える素敵な作品である。
映画感想 シドニー・シビリア監督『いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち 』
ユーロ危機により大学を追われた神経生物学者のピエトロ(エドアルド・レオ)は、合法ドラッグ製造でひともうけしようとするが、逮捕されてしまう。犯罪履歴を消す代わりに警察の捜査に力を貸すことになった彼は、かつて合法ドラッグを製造していた仲間たちを呼び戻す。ピエトロら研究者たちは、ドラッグのまんえんを阻止するため奮闘するが……。
『いつだってやめられる 7人の危ない教授たち』の二作品目。
前作のブログはこちら。
そう、題名を見るとわかる通り、前作から3人増えたのである。
増えた彼らは、戦闘要員、武器要員、法律要員。
たしかに必要な人員だとは思うけど、映画のなかではそこまで活躍していない。
なんで増やしたんだろう。
だめなおっさん達がスマートドラッグに使われている成分を30種類明らかにしようと奮闘する姿は面白い。
一番の見せ場は電車のシーンだろうか。バルトロメオが飛び乗るシーンでは思いっきり笑ってしまった。
映画の終わりとしては不完全燃焼の終わり方。
三作目につなげるための二作目といった形。
とはいえ、奥さんの出産と最後スマートドラックの成分を明らかにすることの両方に追われている主人公は必死で見ていて面白い。また、釈放される寸前の時に釈放されても戻るのは皿洗いやガソリンスタンドだといって切ない表情の教授たちはとても切ないし、それを聞いている警部の顔は一層切ない。
おじさん好きな方にはやはりお勧めしたい映画であることには変わりがない。
三作目でこそ、彼らの幸せな姿を見れますように!
ドラマ感想 『フレンズ』
シェフの助手として働くモニカ、俳優志望のジョーイ。ジョーク好きのチャンドラー、シンガー・ソングライターのフィービーが、"セントラル・パーク"カフェでおしゃべり中。そこにモニカの兄で古生物学者のロスが。愛妻がレズに目覚めて離婚したことを嘆いていると、モニカの高校時代の友人レイチェルが花嫁姿で駆け込んでくる。挙式をドタキャンして逃げ出してきたのだが?!
今回は懐かしのドラマ、フレンズについて書いていく。
笑いあり、ロマンスあり、感動ありで私はとても好きなドラマだ。
シットコムと呼ばれるジャンルのドラマで、お客さんの笑い声や拍手がストーリーの合間に入っている。この形式のドラマを見たことがない方は、最初戸惑うかもしれないが、ドラマにはまっていくと気にならなくなる。
一話完結でさくっとみることができるお手軽さもあり、はまると抜け出せなくなるドラマ。
英語学習用のドラマとしても活用されることが多く、ご存じの人も多いと思う。
まずはその魅力について書いていく。
魅力はたくさんあるだろうが、ここでは私の感じた魅力について書いていく。
一番の魅力は、登場人物の6人の個性あふれるキャラクター。
それぞれが癖の強いキャラクターを持っており、ストーリーの展開をありきたりのものではなく、笑わせてくれるものにしてくれる。そんなキャラクターが6人で掛け合うので、その効果は絶大だ。
ふと疑問に思ったのだが、フレンズの6人の中でどの登場人物が人気なんだろうか。
それぞれお気に入りの人がいると思うが、私の推しのキャラクターはチャンドラーだ。
チャンドラーは、ジョークが好きで折に触れて披露するのだが披露するジョークは基本的にはすべり芸となる。披露するようなシチュエーションではないときに、皮肉のきいた突っ込みもするのだが、その突っ込みが私は好きだ。
キャラクター以外の魅力としては、コメディとロマンスのバランスの取れたストーリーだろうか。おおざっぱに書くと、コメディ8割ロマンス2割くらいの割合だ。
基本的にはコメディメインのドラマのため、2割のロマンスがより一層心に響くのだ。いわゆるギャップの効果だろうか。普段はおちゃらけている人やだらしない人が、真剣にロマンスに向き合う姿にはぐっとくるものだ。
他にも、ブラットピットやブルースウィリスなど豪華なゲストが出演していたりするなど、そういった点も楽しめるポイントだ。
一方で、当時のステレオタイプ的な考え方のみが描かれているという点で多様性に欠けるという指摘もあるようだ。詳しくは以下のリンクをご参照。
今年、同キャストで『フレンズ』の続編を制作する予定していたが、新型コロナウイルスの影響で延期になっており、制作再開の時期は未定のままとのこと。
未定なので新作が本当に制作されるかはまだ分からないが、どのような作品になるのかは1ファンとしてとても楽しみな作品だ。
映画感想 シドニー・シビリア監督『いつだってやめられる 7人の危ない教授たち』
社会から弾き出された学者たちが、合法ドラッグでひと儲けしようとする姿を描いたイタリア製クライムコメディ。1981年生まれの新人監督シドニー・シビリアが、素人犯罪集団を待ち受ける運命を独特の映像センスでテンポ良く活写し、長編デビュー作ながらイタリアでスマッシュヒットを記録した。神経生物学者のピエトロは研究に人生を捧げてきたが、大学から研究費を削減され職を失ってしまう。新しい職も見つからず路頭に迷った彼は、自分の知識を生かして合法ドラッグを製造しようと思いつき、自分と同じく社会から不遇な扱いを受けている経済学、化学、人類学、ラテン語の専門家たちを集めて犯罪集団を結成する。日本では「イタリア映画祭2015」で上映(映画祭上映時タイトル「いつだってやめられる」)。18年、劇場未公開だったイタリア映画を特集する「Viva!イタリア vol.4」(2018年6月23日~ヒューマントラストシネマ有楽町ほか)で劇場公開。
主人公は大学での研究費をもらえなくなった教授。
この映画では、同じような境遇の元教授たちが結集して合法ドラッグを作成して儲けようとする映画である。
ガソリンスタンドや飲食店の皿洗い、工事現場で働いて日銭を稼いでいる教授たちを主人公が誘い、物事は進んでいく。
学問軽視の世間を風刺するような印象を受ける。
例えば、主人公のピエトロが研究費をもらうために教授の上司にあたる人?との共同研究を発表していた。しかし、その上司でもその内容を理解できておらず、結局研究費をもらえなくなったのである。
自分が理解できないことを見て見ぬふりをしたら、その発見されたことは存在しなかったものとして永遠に葬られてしまう。
社会としては、学問研究に全くお金を投じないというのは正しくないだろう。むろん、適正な研究がされているかの監視は必要だろうが…。そのバランスが難しいんだろうな。
登場する大学教授たちは癖のある男たちで、ださかっこいい。
それぞれの専門分野の知識を活かし、合法ドラッグの販路を拡大していく。
俯瞰をしてみると、このことがすでに学問軽視による弊害を描いているようにも思えた。
映画の内容としては、時折コメディ要素やアメリカ映画にあるようなギャング抗争の要素も入って素直に楽しめるものだ。
合法ドラッグの開発と販売で教授たちが得るものは何なのか、逆に失うものは何なのかシーンごとに考えさせてくれる映画だ。
イタリア映画を観るのは久しぶりだったので、イタリア語の映画を観るのは新鮮だった。
主人公がギャングのパーティーに参加するときに、『ソウスリャナンデモ キープ・イット・グリージー』と日本語で書かれた門をくぐっていたのだがあれは単なるデザインで作成されたのだろうか?どんな背景があるのか気になった。Tシャツのデザインみたいなもので、文章そのものの意味はないのかな?
ここから全部で3部作あるとのことで、残り二部作(いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち、いつだってやめられる 闘う名誉教授たち)も観ていきたいと思う。
映画感想 スティーヴン・チョボスキー監督『ワンダー 君は太陽』
生まれつき顔立ちが人と違う少年オギー(ジェイコブ・トレンブレイ)は、幼いころから自宅で母のイザベル(ジュリア・ロバーツ)と勉強してきた。10歳になり学校に通い始めた彼は同級生と仲良くしたいと願うが、じろじろ眺められたり避けられたりする。しかし彼の行動が、周囲の態度を少しずつ変えていき……。
つらいこともあるけど、優しい世界。
そんな世界観で物語は進む。
現実の世界もこうであってほしい、そう思わずにはいられない。
オギー(ジェイコブ・トレンブレイ)視点だけの物語ではなく、周りの家族の視点がはいった群像劇のように描かれているのが意外で、この描き方はとてもよかった。
学校という環境の中での子供同士の人間関係のあり方がよく描かれている。
オギーは頭がよく、そこから人間関係を築いていくが一筋縄ではいかない。
そこには乗り越える壁がでてくる。
一人で乗り越えられる壁ではなくて、他の友人の力を借りながら突破していく必要がある壁だ。
お互いを信頼し続ける意志の強さが試されるところだろう。
えてして、力の強いほうに子供たちは引っ張られてしまうがこの映画の子供たちはどうだろう?
自分が一緒にいて楽しいと感じる友人とずっと一緒にいることができるだろうか。
自分はまだ子供がいないのでなんとも言えないが、子育てを経験された方が観るとより感動するのかもしれない。
親は子供が学校でどのように生活しているか、すべてを知ることができない。
だからこそ、家族で過ごす時間は大切にし学校での生活を乗り越えられるようにサポートすることの重要さがわかる。
最近、自分より若い世代が頑張って壁を乗り越えようとしている姿を見ると感動をして涙腺がゆるむ体になってしまった。
自分も負けじと頑張らなければならない。
読書感想 村上龍『寂しい国の殺人』
現代をおおう寂しさは、過去のどの時代にも存在しなかった。近代化達成による喪失感は近代化以前にはないから。今の子どもたちが抱く淋しさは日本で初めてのものなのだ…。日本の近代化終焉を告げるヴィジュアル・テキスト。
神戸連続児童殺傷事件を受けて村上龍が書いた作品。
社会・家族・メディアについてふれながら力強く、しかし淡々とした文章で現代の問題について書かれている。
この作品が1998年に刊行されて20年以上もたつ今だが、書かれている内容は古くなく、むしろ今だからこそより刺さる内容なのではないだろうか。20年以上も前にこんな内容が書かれていたのかと思わざるを得ない。
『近代化が終わったのにだれもそのことをアナウンスしないし、個人的な価値観の創出も始まっていない、だから誰もが混乱し、目標を失って寂しい人間が増えている、オウムも、女子高生の援助交際も、子どもたちのいじめもこの国の人間たちが抱える寂しさが原因で発生したことだ』
村上龍は、国家が一体となって目指す目標がなくなった今の社会が抱える寂しさについて書いている。
今は、猛烈に働くサラリーマンよりも、先端機器を上手に使いこなし趣味が充実している余裕のある生活をしている人が幸福とされている。
そうなるために、子供たちはいい学校に入り、いい会社に入ることを周りから推奨される。しかし、その一方でその生活が本当に充実したものではないとも言われ(気づいて)、その葛藤の中で生きている。
私は割と、いい学校に入り、いい会社に入って、それなりの生活をしてきたほうだと思う。27歳になる今、まさにこの葛藤を抱えている。
給料にもそれほど文句はないし、経済的に考えると将来性のある職には付けていると思っている。
しかし、一方で自分がしている仕事をくだらない仕事だなと感じてしまうこともある。この仕事で誰かが幸せになるのだろうか?とかそういう上流のことをふと考えると、正直あまりそうも思えない。正直、これ以上の技術の発展は不要なのではないかとも個人的には思っている。
だから、出世をして上の立場になりたいという意欲もわかないのだ。
じゃあ、なぜこんな仕事をしているのか?と問われると、これが今の生き方の正解だからとしか答えられない。
休日もあって、給料も不足なく、最先端のことに触れられて、たまに旅行に行ける。その生活をするための仕事が今の仕事なのだ。
こういった思いを抱えながら働いて、この先本当に幸せになれるのかは正直不安がある。村上龍は以下のようにも書いている。
『子どもは親のことを見ている。生き方を見ているのだ。生きていく姿勢、日常的に示す価値観をじっと眺めている。日頃危機感を示していない親が、「危機感を持て」と言っても、子どもにはまったくリアリティがない。』
わたしは個人的に充実感を得られるような仕事を持ち、個人的な目標を設定できなければこの世の中は生きにくい、と常に思っていて、自分の子供にはそのことを身をもって示し続けた。
うーん、共感できる。
子供はまだいないが、自分の仕事について魅力のあるすごい仕事なんだ!とは正直今は言えない。
そういう風に話せる仕事をしたいと思うし、そんな生き方をしたい。自分の人生を見直すタイミングが今なのかもしれない。
最近、岡本太郎や村上龍の本を読んでこちら側に寄りすぎている気もする。
少し立ち止まって考えて決めよう。
自分の人生なんだから。
そんな風に考えさせてくれた本だった。
映画感想 ジョン・ランディス監督『ブルース・ブラザース』
黒い帽子に黒のサングラス、黒いネクタイに黒のスーツという、全身黒づくめのジェイク・ブルースとエルウッド・ブルースは、ちぎりを交わした兄弟分。そのブルース兄弟が昔世話になった孤児院が、窮地に陥った! 彼らは孤児院を救おうと、かつての仲間を集めて“ブルース・ブラザース・バンド”を再結成し、そのコンサートの利益を孤児院に寄付しようとするが……。
1980年に制作された作品。
こんなにかっこいいバディ映画は初めてだった。
刑務所から出所したばかりのジェイクとその弟エルウッド。
彼らがブルースブラザーズだ。
彼らはどんなことになっても動じることがない。
最初はその動じなさすぎが笑えてしまう。
住んでいたホテルが爆破されて、しかもそのがれきの中に埋もれているのにも関わらず、そのことにはいっさいふれず仕事の時間だといって動き始める。
え、どういうこと?笑、といった形で笑いを誘われる。
しかし、最後にはぶれない彼らに夢中になっているはずだ。
彼らは自分たちが育てられた孤児院の納税額5000ドルを稼ぐために、バンドをしようとする。そしてそのことが、神から与えられたミッションだと考え疑わない。
神のミッションなのだからといって、かつての仲間たちを半ば強引に連れて行く。
音楽が流れるシーンは、聴衆が最高に幸せそうなのも印象的だ。
幸せってこういうことだったのでは?と感じてしまうほど。
新しいアーティスト、新しい音楽、それらのプロモーション、世界へ向けての発信、それらが悪いことだと思わないし、むしろ必要なことだと思うけどそちらにばかり偏ってしまうのもいかがなものなのだろうか。
名曲はすでにたくさんあるのだから、そのパフォーマンスを磨き上げてみんなで気軽に楽しめる場が身近にあるともっと幸せに生きれるのでは?とも思った。
爆破されても動じないほどぶっとんでいるブルースブラザーズもライブではプロフェッショナルだ。
自分たちも楽しみながら、聴衆に語り掛けながらパフォーマンスをする。
道中にはいろいろあり、警察やらナチスを標榜する政党やら多くの人たちに追われる。
ブルースブラザーズは彼らから逃げるわけだが、そのカーチェイスも必見。映像は昔のものなので、今作られているようなカーチェイスではない。
しかし、異様な数の膨大なパトカーや警察の数に追われながらも自分たちのペースで逃げるブルースブラザーズの画には芸術性さえ感じる。
これは、警察に対する皮肉かな?
また、ラブロマンスの要素を感じさせておきながら、それらを完全に無視しているのもブルースブラザーズの魅力を存分に引き上げている。
お決まりのスタイルにははまらない。
幸せってなんだっけと感じている人。
社会がこっちだ!といっていることに疑問を感じる人。
かっこいい人間ってどんな人だっけかと迷子になっている人。
一度、今作を観てほしい。
格式を高くしたいわけでは決してないが、この作品は芸術的な作品だと私は思う。
こういう作品を観たかった!そう思える作品だ。
最後にバディ映画のよさってどんなところにあるのかを書こうと思ったんだけど、長くなってしまうのでやめる。
またどこかで書けたら書いてみる。