映画感想 アン・リー監督『ジェミニマン』
腕利きのスナイパーとして、その名をとどろかせるヘンリー(ウィル・スミス)は、政府からのミッションに臨むが、正体不明の人物から襲撃を受ける。自分の動きや考えを見越しているだけでなく、バイクを使った武術を繰り出す襲撃者にヘンリーは苦戦を強いられる。やがてヘンリーは襲撃者を追い詰め、襲撃者の正体が若いころの自身のクローンだと知る。
力を抜いて観れるアクション映画。
アクションシーンは動きがなめらかで見ごたえがある。
一方人物描写は薄く、物語の核となるクローンの是非ついての解釈は少しおおざっぱだったように思う。
戦争をする場合、軍隊で勤める人たちの命が失われる。
無事に生きて帰ってきたとしても精神的に病んでしまい自殺をする人もいる。
それを防ぐために優秀な戦士のクローンを作り、最小限の被害にして戦いを終わらせる。
こういった意見に対して言葉で何も返さずに、銃で撃って終わらせてしまったシーンがあったがそこのシーンには違和感を覚えたし何らかのセリフで戦ってほしかった。
今まで人が担っていた兵士という役目を優秀なクローンが担い、最小限の被害に食い止める。
この時に問題になるのは、人が科学技術で人を誕生させるという倫理上の問題を除けば、クローン自身が人生の選択肢を持てていないということだろう。
ただ、そういうことを考えるとそもそも自ら兵士になることを志願して、兵士になった人がどれだけいるのだろうかということ。彼らは十分な選択肢があるうえで、兵士になったのだろうか。私にはよくわからない。
現実世界では戦争・紛争も機械化され、情報戦争ともいわれるようになっている。
今まで語られていた戦争とは違う形で複雑に展開されているものになっている気がするが、ふわふわと流されずに気を張って生きていきたい。
1996年に羊のドリーを生み出したクローン技術、今はどれくらい進歩しているんだろうか。
映画感想 武正晴監督『アンダードッグ』
「百円の恋」の武正晴監督が、森山未來、北村匠海、勝地涼をキャストに迎えたボクシング映画の前編。プロボクサーの末永晃はかつて掴みかけたチャンピオンの夢を諦めきれず、現在も“咬ませ犬”としてリングに上がり、ボクシングにしがみつく日々を送っていた。一方、児童養護施設出身で秘密の過去を持つ大村龍太は、ボクシングの才能を認められ将来を期待されている。大物俳優の2世タレントで芸人としても鳴かず飛ばずの宮木瞬は、テレビ番組の企画でボクシングの試合に挑むことに。それぞれの生き様を抱える3人の男たちは、人生の再起をかけて拳を交えるが……。
映画館で前後編を鑑賞。
足立紳が原作・脚本を担当し、監督も武正晴監督と『百円の恋』の制作陣が再び集結し、ボクシング映画を描いている。
百円の恋については↓こちらをご参照。
この映画は友人と二人で鑑賞をした。大学生自体からの友人である。
久しぶりに会ったが、『仕事どう?』『んー。おもんない。』『そーだよなぁ、仕事っておもんないよなぁ。』そんな会話を交わしながら映画館へ向かう。
このアンダードッグに描かれているのは、一言で言ってしまうと負け組たちの物語だ。
とりあえず、生かされている環境の中で生きているが、そこには何かを諦めきれないで中途半端に生きている男たちがいる。そんな彼らの共通点はボクシングというスポーツだ。
その中途半端な日常とリング上でかませ犬としてぼこぼこに殴られて、セコンドからも愛想をつかされ、さらには家族からも見放される。そんな男の鬱屈とした日常がある。決して晴れ晴れとしたきれいな映画ではない。
それでもボクシングのリング上で戦う男たちの姿には感動をしてしまう、いろいろな思いがあってそこに立っているのが分かるからこそ、その特別な舞台で無様に殴られる姿にさえ感動する。
話は変わってこれは私の肌感だが、仕事に人生の意義が見いだせないって人って多いのではないかと思う。仕事に心血注いで充実感を感じている人ってざっと2割くらいの限られた人なのではないかと思う。
だがしかし、そのような生き方でだましだまし充実した人生を歩ませてくれるほど、人生は甘くない。
何か、命を懸けて取り組めることを1つみつけなくてはならないだろう。
鬱屈とした思いを抱えながら生きている人には一度みてほしい作品だ。
私は、この映画を観た後のフットサルでいつにもまして積極的にシュートを打った。周りの人たちに遠慮せずに。
気分は爽快だった。
雑記 『何の意味もないけど書きたくなったから書く』
批評家ってすごい。
相当な自信と自我、他者の意見を全く気にしない意志の強さが必要なのではないだろうか。
私は本ブログで映画や本の感想を好き勝手に述べているが、クリエイターの方々への畏敬の念は耐えない。
作り手である彼ら彼女らは、あらゆる苦難を乗り越えて一つの作品を世にはなっているのである。(あくまで私の想像じょうだが)それが世の中にプラスなのかマイナスなのかはわからないし、正直そこは問題ではないと個人的には思う。むしろ世に迎合したごますったような作品には魅力は感じない。世界に一太刀いれるような切れ味するどい作品を望んでいる。
世界に絶対の正解はない。ある部分では正解であっても、ある部分では不正解なはずなのだ。
この観点を見失っている人があまりにも多いのではないだろうか。
誰もかれもが自分の正解を世界の正解と思っている人が多いように思う。
話の本筋がそれた。
批評家ってすごいという話。
正解がない世界に対し、あくまでも『これが正解なんだ』と個人の意見を貫き通す。
これを自覚しながらも叫び続ける人が、本当に批評家であろうと思う。
清廉潔白で誰もが納得するような論理展開は求めていない。
そういう意味ではクリエイターも批評家も同じ穴の狢なのかもしれない。
駄文雑文の雑記、お粗末。
映画感想 カーティス・ハンソン監督『8 Mile』
1995年、デトロイト。中産階級の白人が多く住む郊外とは“8マイルロード”で分断され、貧困層が多数を占める都市中心部。ジミーはここで無職の母と幼い妹の3人でトレイラー・ハウスに暮らしていた。彼は昼間プレス工場で働き、夜はヒップホップ・クラブ“シェルター”で毎週行われるラップ・バトルでの優勝を目指し、プロで成功することを夢見ていた。だが、彼は才能がありながらその実力を発揮出来ないでいる。加えて母ステファニーとの確執に悩んでいたジミーはある日、モデルを夢見るウェイトレスのアレックスと出会い恋に落ちるのだが…。
今までチャラついているものというイメージがあり、なんとなくラップを聴くことを避けていた。
そんなイメージを変えてくれるきっかけの一つとなったのはこの映画だ。
とはいっても、この映画の面白さはラップそのものだけではなくストーリーもしっかりしているところにあると思う。
ぴかいちのラップのスキルをもつラビット(エミネム)が、様々な問題や葛藤を抱えながら人生を切り開いていくサクセスストーリーだ。
ラビットのスキルを信じて応援してくれる友人たちとの友情は素晴らしいものだが、夢をつかむためにはずっとその環境で甘えているわけにはいかない。
一方でビジネスでうまい話をもってくるやつの甘い誘いに乗ることもできない。
そんな様々な葛藤を抱えながら、ラビットは舞台に上がり、フリースタイルのラップバトルに参加する。
経済的貧困や職場環境、家庭環境、それぞれの描写もしっかりとされておりその一つ一つがラビットの血となり肉となっている。決して通り一辺倒ではない人生を生きながら、ラップバトルに臨む。ラップバトル後のラビットの行動も好きなシーンだな、真剣に人生を歩みだしている感じがする。
あと、ラビットとリリーの関係性がとても素敵。
子供だけは絶対に大切にする人になりたい。
映画感想 フェデ・アルバレス監督『蜘蛛の巣を払う女』
凍てつく冬が訪れたストックホルムで、天才ハッカーのリスベット(クレア・フォイ)に、人工知能研究の権威バルデル博士から依頼が舞い込む。 その内容は、彼自身が開発した核攻撃プログラムをアメリカ国家安全保障局から取り戻すというもの。彼女の能力からすればたやすい仕事だったが、これは彼女への復讐(ふくしゅう)をもくろむ生き別れた双子のカミラ(シルヴィア・フークス)が仕掛けたわなだった。
ドラゴンタトゥーの女の続編として作成された映画。
ドラゴンタトゥーの女とメインスタッフ&キャストは前回とは異なる新しいメンバーになっている。
雰囲気は前回のドラゴンタトゥーの女と同じようなダークな雰囲気で描かれている。上映時間はドラゴンタトゥーの女が158分で、今作の蜘蛛の巣を払う女は115分とコンパクトに見やすい長さになっている。ストーリーとしてもシンプルで分かりやすいものになっている印象。
ドラゴンタトゥーの女と比べると、軽い印象を抱いてしまう。
しかし、リスベット(クレア・フォイ)が一匹狼ながらも少数の仲間に協力を得ながら巨大な組織に挑む姿はかっこいい。
しかし、一筋縄にはいかず苦しむシーンもあり、そんなときは心苦しいほど華奢な女性に見えるのも不思議だ。
冒頭の過去のシーンから最後の展開までがきれいにつながっていたようなストーリー。
しかし、黒幕のキャラとしては少し優しすぎる感じは否めなかった。
単体で考えたら普通に面白い映画と思えるはずなのについ対比をして見てしまう。
大作の続編をとるってめちゃくちゃ大変だな…。
読書感想 三島由紀夫『金閣寺』
「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」。吃音と醜い外貌に悩む学僧・溝口にとって、金閣は世界を超脱した美そのものだった。ならばなぜ、彼は憧れを焼いたのか? 現実の金閣放火事件に材を取り、31歳の三島が自らの内面全てを託した不朽の名作。血と炎のイメージで描く〈現象の否定とイデアの肯定〉──三島文学を貫く最大の原理がここにある。
屈折した人を描いているようで、その論理は筋がとおっている部分がある。
人生観が一筋縄でいかないこと、その深淵を描いているような作品。
数多くの文章が、考えぬかれた文章となっており、味わい深い。
下手な考察はせずに、私が読んで印象に残った文章を以下に引用する。
・鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血が流れたときは、悲劇は終ってしまったあとなのである。(P24)
・世間でいわれている不安などというものが、児戯に類して見えて仕方がなかった。不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜い鰐の存在しているのと同じほど確かなことである。世界は墓石のように動かない。(P126)
・少年時代から、人に理解されぬということが唯一の誇りになっており、ものごとを理解させようとする表現の衝動に見舞われなかったのは、前にも述べたとおりだ。(P171)
・陽気な若い駅員が、この次の休みに行く映画のことを、大声で吹聴していた。それは見事な、涙をそそるような映画で、派手な活劇にも欠けていなかった。この次の休みは映画に!この若々しい、私よりもはるかに逞しい、いきいきとした青年が、この次の休みには、映画を
見て、女を抱いて、そして寝てしまうのだ。(P249)・どうだ。君の中で何かが壊れたろう。俺は友だちが壊れやすいものを抱いて生きているのを見るに耐えない。俺の親切は、ひたすらそれを壊すことである。(P273)
・彼女は信じなかった。目前に自身が起こっても、彼女は信じなかったにちがいない。世界が崩壊しても、この女だけは崩壊しないかもしれない。(P294)
・言葉は私を、陥っていた無力から弾き出した。俄かに全身に力が溢れた。とはいえ、心の一部は、これから私のやるべきことが徒爾だと執拗に告げてはいたが、私の力は無駄事を恐れなくなった。徒爾であるから、私はやるべきであった。(P325)
上記の文章の一部にでも少しでも興味をそそられたら、一度読んでみることをお勧めしたい。
読書感想 村上春樹『風の歌を聴け』
1970年の夏、海辺の街に帰省した<僕>は、友人の<鼠>とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送る。2人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてやるうちに、<僕>の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作。群像新人賞受賞。
村上春樹のデビュー作。
今更ながら読んだ。
軽快なタッチの文章で読みやすい、量自体も少ないのでさくっと読めるもの。
こんなことを書くともっとじっくり読みこんだほうが楽しいといわれるかもしれないけど、この読みやすさが私は好きだ。
読みやすくて、意味ありげで、含蓄を含んだような文章たち。読後は楽しかったという思いがこみ上げてきて、またもう一度読みたいと思う。もう一度読んでみると、また楽しいと思える。
この作品の登場人物も面白いキャラクターたちばかりだが、特に鼠がかっこいい。鼠と主人公の僕の会話が好きだ。
その中でも私が特にお気に入りの会話を以下に引用したい。
「ねえ、俺たち二人でチームを組まないか?きっと何もかもうまくいくぜ。」
「手始めに何をする?」
「ビールを飲もう。」
この会話が、公園の垣根を突き破り、つつじの植え込みを踏み倒し、石柱に思い切り車をぶつけた直後の会話である。
完全に普通じゃないが、そんなことを話している二人はかっこいいと思ってしまう。
村上作品ではお酒が時折登場する。それを読んでいると無性にお酒が飲みたくなるという不思議な文章。
この作品も、夕暮れ時に窓を開けてビールでも読みながら読むとより一層楽しめるかもしれない。